昭和47年03月26日 朝の御理解



 御理解 第53節
 「信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ。後で考えて、あれもおかげであった、これもおかげであったということがわかるようになる。そうなれば本当の信者じゃ」

 信心をすれば、信心をせんでもおかげはやってあると言う。おかげ以上のおかげと申しますか。確かに特別の働きというものを、感じずにおられんのが信心させて頂く者の、日々の体験だと思うんです。信心をさせて頂いておるおかげで、本当にこの信心をさせて頂いておるおかげでと云う事が、私はだから、先ず解らなければいけないと。それも一つのすっきりした思い込みを持ってですね。
 信心させて頂いておる、特別の神様のお計らいの中に、特別のお働きの中に、おかげを受けているんだというその実感がね、あれもおかげ、これもおかげと解るようになる、結果が生まれて来るのです。本当言うたらどんな事が起きても、即その場で「はあ、これもおかげ。あれもおかげ」、もうまあ言うならば、もう何もかにもおかげぞと、言えれると云う事なんですけれどもね、それを色々体験とそれからまあ理論の上から聞かせて頂きますと、確かにあるものは神様の神愛だけしかない事が解る。
 これは、信心しとらなくても、矢張り同じ事だと思うんですよ。起きて来る全ての事が、神愛の表れだと。例えば、叩かれる様な場合もある。撫で擦りされる様な場合もある。だからどちらだって親心であり。どちらだって神愛だと。結論すると、そうなんですけれども、それを実感すると云う事はなかなかそれを、実感する事の出来れる稽古が、だから、信心の稽古と言うてもよい。だから、だんだんおかげを頂いて、何時もいつもおかげを頂いておられる。
 昨日25日で、信心の研修会が御座いました。文男先生がお話しております中に「段々年を取らせて頂いて、親先生もそげん何時まっでん生きらっしゃるとは思われんし、まあ僕達よりも早く死になさるじゃろう」とこう言われる。年から言うたら。「親先生がおられる間は良いけれども、早よう親先生が言っておられる信心を体得したい。体得しとらなければならん。そして年の70にもなった頃にはです。
 もう世の中の全てが言うならバラ色モードとでも言うか、もうあれも是もが一切がおかげだなあと、思わせて頂けれる実感の中に生活が出来る。そこまでは行きたい」と云う事を言っておりますね。本当に「いよいよ、あれもおかげである。これもおかげである。本当におかげの中に、有難い有難い。」と、言っておれれる所までは信心を進めておられる。ただ「もう、有難いと言ってさえおきゃ」というのではないのですね。
 そこであれも是もと言う様な、いろんな事があったり起きたりするんだけれども、それでもです、神様のおかげの中にあっておる事として、それを頂けれる心の状態を作っておきたい。理屈の上では、必ずしも60にならんでも、70にならなくてもね、もう一切が神愛だと解らして、まあ解るだけであったら「あぁそれもおかげだな」とすぐ言える訳なんだけど、実際問題としては、中々そんな訳にはいかない。
 そこで段々、信心の稽古をさせて頂いておるとですね、その即それをおかげ頂いたと思えれる様になるのですね、勿論体験からも、理屈の上から言うてもそう、有難い、おかげというのが本当なんだ。けれどもそんなら、例えば突発的なことが起こったとか、もう腹ん立つ様な事が起こったという時です、もうその腹の立つ様な事柄で、自分自身がはぁどの位おかげ頂いておるかが解るのである。どの位大きな心になれておる事が解るのである。昨日色々な方から、そんな話が出てました。
 綾部さんの家庭的な問題を取り上げてから話しておられましたが、この頃から嫁さんが別に理由も無いのに、何とも言わずに10日か15日位帰っておられた、子供さん連れて。それでお母さん兄さんやっぱ悪かったという気持ちだろう、その送って見えたらしい。その時にですね決して心が穏やかでないち言うのです。「どこが気にいらんなら、そんなことせなならんか」と、まあ言う心がどこにかある訳なんです。けれどももう本当に、そういう素振りも見せずににこやかに、「はあ帰って来たの。
 帰って来てくれたの。」と言えたとこう言うんです。是はもう実感だろうと思うんですよね。心の事はそげんにこやかにではないけれどね、けれどもなら是が信心を頂かない前の私だったら必ず向こうのお母さんにでも、兄さんにでも本人にはなおさらの事、どうとか言うたに違いはないけれども、それこそそれを言わんで済むと云う事が有難い。そこで是からの精進のその目指しというのが、その心に取り組む事だと。
 実を言うたら、はぁおかげ頂いたのだから、口で言ってる様に「はぁ帰って来てくれたの」だけで良いが、心もそう思っとらないけんのだと云う訳です。けれども、心は実は穏やかではないと。けれどもそれを、自分でも表情に出らないで済む位にです、その抑える事が出来る様になったと云う事でした。理屈の上では、あれもおかげ、是もおかげと云う事が解ってるんです。
 解ってるけれども、心では穏やかではない。だから是が、もちっとほんなら、そのすると口に出してしまう訳なんです。そしてその言うた後でもですね、いくらかはまあ後悔する所もありましょうけれどもです、それを言わんで済む様になった。そこで是からは、心の心から芯から、それが言えれる様な、私になる精進をしなければならんと、云った様な、意味の事を話しておられました。
 ですから実際問題中々矢張り難しいのです。実際のしかも同じ事ばかりじゃないですから、日々次々と変った事思いもかけない事」が、起きて来るのですから、それを即有難いと受けれると云う事は、矢張り大抵の稽古をさせて貰わにゃならんのです。昨日もう5時になったから、もう是で一休憩させて頂こうと言う所へ、文男先生がやって来ました。だもんですから、又そこで、また1時間位、時間が延びましたでしょうか。「どうして、こげん時間が遅かったとね。」と、
 私が申しましたら、「それがあなた、あのうそのどこかゴーストップの所で停まって待たにゃならんとに、そのもうこっちがあわてとるもんですから、それを無視して、こう通り抜けた時に、傍にチャンとその白バイがおった訳ですね。そこで捕まえられてから、3千円罰金取られた。自動車の中に乗せられてから、色々その尋問されたりなんかして。「どうしてそんなにうろたえよるとね」「それが今日はこんなわけで、時間切っての会合があって、それに間に合わにゃならんと思うてから、急ぎよりましたから」。
 『そげんあんたもう急がにゃならんとに、こげん事なると却って遅うなるじゃないの」と。もうその通りなんですよ。急ぎよるからというてですね、言わば言うなら交通規則を守らんで良いと云う事は決してないのですから。もうそれこそ信心の無い警察の方が言われる通りなんです急がば回れである。そこの所をやっぱ信心させて貰わにゃならん。おかげで、3千円罰金取られてそして(笑い)却って時間が遅くなってという。
 それで私は後で話した事ですけれども、お参りをさせて頂きよらなかったら、こげな事は起こらんじゃろうという思いなんです。その辺の所が非常にデリケートですね。だから例えば思い方としては、本当に神様に向かっていってなかったとしたら、まだどう云う事が起こっとったか解らん。「まあおかげで大難を小難でおかげを頂いた。心を神様に向けておったんだから」。まあこれだけなのですけれども、口で言う様に心からそれを実感出来るというのが信心ですよ。
 昨日、福岡の富永先生から電話が掛って来た。一番口に「親先生、どうもすみません」ち言うのが一番口だった。「道の真ん中に真っ黒い自動車が横たわっておった。電気が点いてなかった。こちらは少しスピードを出し過ぎる位に出して走って行きよって、ぶつけた。自動車はもうメチャメチャ両方ともそれでこうショックで、入れ歯をしておられますがその入れ歯がこうとれる。まあ診察を受けた結果、別に特にどうという異常はございませんでしたけれども、まあこの程度でおかげを頂きました」と。
 けれどもその「すみません」の内容が、私はどう言う所か解らんのだけれども、詳しくは聞きませんでした。けれども本当にこのそういう場合に「すみません」が一番口に出ると云う事が有難いですね。ですから私共が例えばそう言う様な場合に、そういう例えばひとつの難儀が起こった場合に、その難儀を境にそれを境に、そこから私共がより有難いおかげを頂かせ、今までは頂けなかったとか、味われなかったおかげを頂いた時に「それもまたおかげであった」と云う事になるのである。
 後からその野口さんがお届けに出て見えて、「もう親先生この頃からどうも、あの兄弟達が言いよりました」ち。『この頃富永先生が、どうもその自動車の扱い方が少しろくそになりなさった。ちっとスピードを出し過ぎなさる。お母さん、言うて下さい』ちから、その妹婿になります方が、それを言うておる程でしたち。大体は、中々用心深い丁寧な方なんですけれども。やっぱそう言う様なこりが、只無事で何もなかっただけで行きったら、本当にどう言う様な大きな事になったかも解らない。
 まあ「おかげを頂いて有難い」と、まあ言えると云う事はです、言わばそれもおかげであると云う事が、実感の上に、どれだけのものがあるか分からんですけれども、段々稽古が出来ていっておる印なんです。次には所謂おかげを頂きましたと云う事になるのです。信心の稽古をさして頂いておる、今申します「合楽に向こうて来ていなかったら、3千円のお金を取られんでも「済んだ」という思い方と、「合楽の方へ向かって来よったから、おかげでこの位で済んだ」という思い方と、それも是もなしにですね。
 そういう理屈ではなしにですね「おかげ頂いた」という思い込みです。それをおかげと感じる思い込みです。これが矢張り一時二時の信心じゃ出来ん。それを本当におかげ、「はあ神様どん向こうて来よっとじゃなかったら、どう云う事が起こったか分からん。「大難は小難」と、例えば言わんでもですね、それをそのまま、おかげと感じれれる信心。それにはお互いが何時もお互いが生き生きとした、若々しい信心をしておらないとです、只無理に自分にそう言い聞かせる。
 「まぁ、神様へ向こうておる時だったから、これ位で済んだ」と云う様に理屈で、自分の心の中に言い聞かせよる。それがスッキリ思える事が有難いけれども、それではいけん。それが即おかげと頂けなければ、私は本当の事ではないと思う。そういう私は段々信心が積み重ねられて、それこそ全ての事の中に「おかげ」「おかげ」と言えれる境地が開けてくるとこう思う。いわゆる「本当の信者じゃ」と仰る本当の信者に、段々、ならせて頂くと云う事。それを、文男先生が言っております様に。
 「年を取らせて頂いたら、もう本当に全ての中にいわゆるそれもおかげ、これもおかげと思えれる実感の中にです生活が出来れる様な、そこまでは信心を頂いておきたい」と、こういうのです。だから今も申します様に様々な事がある。その様々な事の中から、それを即おかげと頂けれる心を、鍛えておかなければならない。そして理屈の上ではです「成程神愛より外にはないな」と「その事のおかげで、こんなおかげを頂いておる」「こんな事のおかげで、こういう風に信心がその都度に飛躍しておるから」と。
 理屈の上では、それが分かって来る事になるのです。私は今度長い間風をひかして頂いておるわけですけれど、今度の風邪を境に、神様は「若返れ」と仰る。どう云う様な事だろうかと、私は思わせて頂きよる。本当にです、その若返らせて頂くと云う事はね、ちょいと例えば、しら元気を出す位なら出来ますけれどね。それが本当に若々しく、その心の上に頂けれると云う事は、何時も、どんな場合であっても、それをおかげと頂き止めれる、それをキャッチし、得る様な心の状態を頂かして貰い。
 そういう稽古をさせて頂く事だと、私は思うです。またのご理解に「一生が修行じゃ」と仰る。「あれもおかげであった。これもおかげであったと、分かる様になれば本当の信者じゃ」と。ですから、理屈の上では、本当にそれが神愛の現れであると云う事が分かる。どう云う事であっても。だから、もう信心ちゃ、それ迄のごとある。それを分かったら、もうそれで信心は、もうおしまいの様にある。
 ところが、実際問題に取り組ませて貰って、小さい心が動くというものから考えさせて頂くとです、矢張り成程一生が修行だなと云う事が分かる。あれもおかげ、これもおかげと分かっておりながらでも、そうである。54節に「徳のないうちは心配をする。神徳を受ければ心配はない。」と仰るが、成程今まで、心配をしよった事には、さらさら心配せんで済む様な事になるけれども、お徳を受ければ受ける程、高度な心配は必ず伴のうてくる。だから修行を疎かに出来ないと云う事になる。
 心配は無いと云う事はそういう意味だと思いますね、徳を受ければ心配は無いと云う事は普通人間的な心配はせぬ様になる。思い方が違うその思い込みがスッキリしとる。例えばなら三千円の合楽に向かって来よって、3千円の金を取られると云った様な場合であっても信心の薄い間は「合楽に向かっていなかったのなら家でじっとしとったら、こげな事は起こらじゃったろう」と例えば思う様な心が起こったり、またそれをおかげと頂かせて頂く為に「しかし合楽に向こうて行きよったけんこん位で済んだ」と。
 「本当、えらかったら、どう云う事が起こっとったかも解らん。大難は小難じゃった」と頂いたと、まあそういう風に無理に思うて、おかげと言うと云った様なものではなくてね、もう、とにかく、即おかげとして頂けれる心なんです。だから、そこまではです、徳を受ければ、そこが出来る訳です。信心が段々出来て来て、身に徳を受けて来ると、もう理屈じゃなくて「おかげ」と、こう頂かれるのです。
 だから、ほんなら、もう心配は無いかと言うと、今度は神徳を受けて来ると、又神徳を受けたです、今までならば、全然気にもかけなかった、心配をしなかったであろう様な事が、しきりに心配になるんです。成程一生が修行だと云う事が解る。唯言うならばね、分かり易く言うならば、人間が心配する様な事は心配せんで済む訳なんです。けれどももう、こちらは神様へ向かっていきよるけ、神様がなさる様な心配は必ず伴のうてくる。伴のうておらなければおかしいんです。
 今日私或る本を読ませて頂きよったら、親鸞聖人が88歳の時に書かれたと云う物の中にね、こういう言葉を書いておられます。「是非知らず、邪正も湧かぬこの身なりとて」「是非知らず」とはこれ、是か非かとこう言う是非です、「是非知らず」「邪正」というのは、よこしま正しいと書いてある「邪正も湧かぬこの身なりとて」。ははぁ親鸞聖人の、言うなら90で亡くなられておられますから、もう本当に晩年です。88歳になられてもです、これが良い事か悪い事すら分からない。
 そこにです一生を、矢張り精進し抜かれた所以というかね、がある訳です。成程こういう心の状態であられたから言うならば、日本一の悪人であると云った様な自覚に、何時も立っておられたんだと。こういう心の状態というものは、こりゃあ、実に素晴らしい事ですね。親鸞聖人にしてそれである。例えて言うと、人は人から何時も仏様の様に言われながら、生臭気を取らして頂いたり、妻帯をしたりと、まあ誹謗されたなさったんですね。それでも、親鸞聖人は「それは素晴らしいおかげだ。」
 として頂いておられる訳です、人が言う事を。だからもうここは人間以上の親鸞聖人なんですよ。それは例えば、普通の者では生臭気と言うておる所を、それ以上のものをもって、そこを頂いておられる訳なんです。妻帯しておると云う事に対してもですね、もうそれは大変な高い、いうなら次元に立っておられるのです。まあ是は私の言葉で言うと、その事をですね、成行きを大事にしながら。
 御事柄として受け抜いておられるという姿なのです。という程しのです素晴らしい境地に立っておられながらです、何かに直面される例えば今日の所で言うと、その何かが起こって来る。あれ是の事が起こって来るその都度にこう反省された、私は心の状態でないかとこう思うのです。私もそこんところをそういう風に感ずるのですね。人が有り難いと頂ききらない所を有難く頂けて、頂ける程しのおかげを受けておる。
 それでいて私がここんところを、昨日研修会の時に話させて頂いた事でしたけれども、ここ1ヶ月ばっかりの間に、原さん所の交通事故からこっち、ちょうど6件あるです事故が。それももう、ほんに身の毛のよだつ様なビックリ、いわゆる文男さんが3千円納めたと云う様なそんな小さいもんは入れんなり。もう一命を落としたかも分からんと云った様な、例えば北野の堤さんの場合なんかは、23日の酔っ払い運転で、酔っ払いながらここに向かって来よった。
 お掃除があるから。23日の前の日ですかあ。で、牧の所でダンプカーにぶつけて、単車を巻き込まれたんですからね。ダンプカーに。自分などうもしとらん。それで向こうは若い方じゃったから、もうビックリして、「医者に連れて行く」ち、言う。医者どん連れて行くなら自分な転倒する程酒飲んどる。「うんにゃ、私は金光様に一寸用事があって、急いどるけん」ち言うてから、こっちさえ来た。そっで、向こうの方もこっちさえ付いて来とんなさる。
 そっで、ここで御用さして頂いて、ここの御用が終わって医者に行くちゅう事に。光橋先生とこの息子さんの交通事故も、これはもう、死ぬか生きるか。もう生きとっとが、例えば、生きとっとが不思議な位のおかげを頂いておる。どのひとつをとっても、びっくりする様なおかげを、皆んな頂いておる。そういう事故に遭いながらもです。そこでです、私が今、私が確信しておる事、私が「あれもおかげ、これもおかげ」と言うておることそのこともです、ひょっとしたら間違いではなかろうかと思うてみる。
 ふと「是非知らず、邪正もわかぬこの身なり」である。そこにです私のこの心の若返りがあるという風に、今感じたです。そういう思い方が出来ると云う事。だからもう次の反省から、次の信心に飛躍することが出来る。今まで出来なかった信心。「あれもおかげ、これもおかげである」と、分かって来とる様に思うとる。又実際分かりきった積りでおる。「はぁおかげ」と。けれども、例えば、なら、1ヶ月の間に6つもそう云う事が起こって参りましたりするとです。
 私の心に「是非知らず、邪正もわかぬこの身である」という、その実感がね、親鸞聖人様が仰った、書かれた、書いて残しておられるというその事が、実感として私の心にも伝わって来る。そこに、親鸞聖人の信心の若さがある。私に今度の風邪を境に若返れと仰る事は、そう言う所をです、もう蓮のうてなに座りきって、「いつも極楽で有難いなあ」と言うておる事だけではないちゅう事、人間の言うなら、生き生きとしたと言うか、生々しいと言うかそういう、例えば中にあってですね。
 その起きて来るそのことを、一切神愛として頂けておる。けれどもです、「一生が修行じゃ」と仰るその修行の面にぶつかった時です、果たして自分が言うたり思うたりしておる事は間違いではなかろうか、是か非か分からない、邪か正か分からない。そこを又厳密に正していくという心の姿勢。成程こういう姿勢を取ったら年をとられないだろうとこう思うです。心が何時も若々しくしておられます。
 『あれもおかげであった。これもおかげであった』と分かる様になると本当の信者じゃ。」と云う事が、分かると云う事においてはです、しばらくここでお話でも頂き、信心させて貰いよるとです、一切が神愛の中に起きて来る事だから「おかげがの」と言えれる訳です。神様はこの氏子が憎うしてから怪我させなさるのではないと。例えば、怪我位な事じゃない。取り返しの付かない、言うならその死ぬると云う事においてもしかりである。けれども神様の大きな心からするとですね、神愛である。
 それを分かりきっておる。それを今までの体験からです、成程、信心しておれば目に見えるおかげより目に見えないのおかげの方が多い事に、驚く程に目に見えない所のおかげの面が分かって来る。分かって来れば来る程に有難いと云う事にはなるのだけれど。なら、本当の信者になって、「あれもおかげである、これもおかげである」と、分かる程しになったとしてもです、それでいて、人から生仏様の様に言われながらもです。
 まだ自分のしておること、言うておる事は、よこしまな事か正しい事か分からんのだと、自分の心の中に深く猛反省をされておられる。是か非か分からんのだ。これで良いか悪いかと云う事が分からんのだ。だからとにかく、あれも是もと云った様な問題に直面した時にです、自分の心をいよいよ深く広くして行く事が出来る。成程、「一生が修行じゃ」と仰るのは、そう云う事。
 「神徳を受ければ心配はない」と仰る事は、人間が心配する様な事は心配せんで済む様になるけれども、徳を受ければ徳を受けた時点で、やはり、心配になる事もありゃ、心にかかる事もある。だからこそ、人間がいよいよ深められていくのである。いわゆる、本当の信者になったからというて、それで良いというのではない。本当の信者になった。そこからです、いよいよより本当なものを、より垢抜けしたより本当の信者というものを目指さなければならないと云う事になる。
 限りが無い。綾部さんの、じゃないですけれども、信心の無い時ならば、それこそ心で思っとった事をそのまま言うたであろうけれども、信心させて頂く様になったから、そこがおかげであると云う事が分かったら、本当に「はぁ帰って来てくれたの」と、にこやかにして言えれるけれど。分かっちゃおるけれども、なら心の芯からは分かっていない自分を発見するという訳です、心には本当は穏やかではないものがあったけれど、そこで是からの信心の焦点は、心にもです。
 本当に有難いと思えれる様に成る所に、是からの信心の精進があるんだと云う様な事を言っておられる様な事なんです。言わなければ誰も知らない事、目に見えない所。その目に見えない心の中に、私共が猛反省させて頂いて改まって行くという。そこから今まで目に見えなかった所のおかげが見えて来る様になる。感じて来れれる様になる。そこで、おかげの世界というものは。
 いよいよ広がって、広く、目に見えるおかげより目に見えないおかげの世界が解って来る。ここのところは、もう限りが無いのですから、ここを広め、深めて行く事は、もう限りが無い事。そこで、例えば、親鸞聖人が88になられてからでも、こういう心の状態でおありになった意味が少し、こう私にも分かる様になる。「ははぁ、若返ると云う事は、こういう何時も心の生き生きとした状態でおる事だな」と。
 是でおかげを頂いて来ておるから、是がもう間違いないと、例えば言いながらもです。何かの事に直面した時に「大丈夫だろうか。、本当に間違っていないだろうか」と、また反省してみると云う様な。そういう私は信心を、まあ生き生きとした信心だと。もう一つの殻の中に、ただ有難い、勿体無いという殻の中に入ってしまうというのではない、金光様のご信心は。だからこそ、「一生が修行じゃ」と教えておられるわけですよね。
   どうぞ。